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私的籠球論 15 日本人に必要なのは「老獪さ」

かなり前の話になるのだが、バスケW杯予選の日本対フィリピンの試合を観戦した時のことだ。

基本的にアジアのバスケットというのは一人だけ海外出身の帰化選手を使うことができ、日本にもフィリピンにも帰化選手の黒人選手がチームにいた。

試合はフィリピンのペースで進む。フィリピンの絶対的な黒人センターがゴール下の番人と化しリバウンドを拾いまくる。

しかしバスケットというスポーツはサッカーや野球と違い、選手入れ替えが自由なスポーツである。そのフィリピン代表の黒人選手も40分ずっと出っ放しというのはできない。

一番疲れる時間帯である第3クォーターの後半に控えのフィリピン人センターに交代する。本来ならここで日本はゴール下の覇権を奪い、逆転をしなければならない。

しかしフィリピン人というのはこうした疲れる時間をはぐらかすのがうまく、のらりくらりとごまかされて、黒人センターが体力回復し、コートに戻る。

そうして試合はそのままフィリピンが日本の攻勢をしのぎ切って、アウエーでの勝利を手にした。

この試合を見て思ったのは、フィリピン人はいい意味での老獪さというか要領の良さというものがあるように思える。

筆者はかつてボクシングにはまっていた時期があったが、フィリピン人はこの競技でもそうした要領の良さがあった。

日本人はタイトルマッチの時に第1ラウンドから最終第12ラウンドまで全部のラウンドを取ろうとする。

しかしフィリピン人はそうではない。意図的に「抜く」というか、このラウンドは相手に譲るというか、合計12ラウンドのうち最初から休むラウンドを作って、最終的にトータルの過半数のラウンドが取れればいい、というある種のしたたかさがある。

それに比べると日本人のスポーツに関する考え方というのは愚直といえば聞こえはいいが、筆者には馬鹿正直というか、こうした手練れの古強者の体のいいカモになっているように見える。

今回のブログはバスケットであるが日本の場合、サッカーでもそうなのだがすべての競技にこれから必要なのはこうした老獪さ一種の緩急なのではないのかと思う。

バスケの話に戻すと、日本もそのあと八村やファジーカスといった選手が日本代表は言って強くなったが、こうした競技における本質的な部分というのが日本人に必要なのは変わらない。

バスケでもサッカーでもそうなのだが、試合のすべての時間帯が自分たちのものになるうことはあり得ない。必ず相手の勝負所の時間帯はある。

何の競技でもそうなのだが、すべての時間帯をマックスの力であると一番疲れる時間帯で息切れする。日本人に必要なのはこうした重要な時間帯を察知して、濃密なエネルギーを使う選択と集中である。

日本人にはそうした老獪さを「ずる」と考えるがスポーツが現金化した現在において真っ正直なやり方では通用しないのである。