私的蹴球論 21 週末にフットボールがある幸せ
今回のブログはいつもの大仰な問題提起ではなく、単なる独り言である。それを踏まえて読んでもらいたい。
筆者自身J2のジェフ千葉のサポーターであるが、2017年頃から下部リーグやなでしこなど様々なカテゴリーのサッカーと出会うことになって、ほぼ毎週末東京近郊のどこかしらのサッカー場に足を運ぶ生活をするようになった。
そうしたうえで大体の試合が思い通りにならない結果が多いのだが(人生と一緒だ)、好きなことにイライラカリカリできることの大切さを実感している。いまコロナウィルス騒動でサッカー観戦を取り上げられた状態になってはじめて、サッカー観戦が週末できる日常というのがこれほどにも愛おしいものだということに、遅ればせながら気づかされた。
本来ならこの時期だとJ2の順位表や途中経過とにらめっこしていて、後半アディショナルタイムの失点に失望したり、得失点差にカリカリしているはずである。
サッカーの母国のイングランドのある高名な教授は「プロサッカークラブはファンにストレスを売っている」と言っていたが、いい得て妙である。
いまの時点(2020年3月7日執筆)Jリーグは当然中断期間である。こういうサッカーがない状態になっていると試合そのものが無いから結果にカリカリしようがない。いわゆるストレスフリーな状態になり、心が次第に穏やかになってくる。
それなら「普段からサッカーなんてないほうがいいじゃないか」と言われそうだが、サッカーがない生活というのは、なんというか「隠し味のないスープ」を毎日飲まされているような気分だ。
胃袋は満たされて、日々の生活に必要な栄養素はちゃんと摂取できてはいるのだけれども、食生活の中に喜びや感動がないような生活を繰り返しているような感じなのである。
そう思うとサッカーという娯楽は、取り上げられて気づいたが、一種の強めの香辛料、いわばスパイスのような働きをしているように感じてきた。
筆者自身恥をさらすようだが、一時期働けない時期があった(今はちゃんと働いている)。
仕事のない生活というのは基本的に時間はあるし楽なのである。
でもなんていうのか生活に張りがないというか、持て余すほどの自由に飽きてしまうのである。
レベルは違うがサッカーのない生活というのもそうした味気ない生活という意味では、無職時代の張り合いのなさに共通した空気の弛緩のようなものを感じる。
良く交際していたパートナーがいなくなったとき、「あいつがいなくなって初めて存在価値に気づいた」というセリフをよく聞く。
だから改めて思うのだが(去ったパートナーは戻ってこないが)サッカーという恋人はコロナウィルスという病気に打ち勝ち、必ず戻ってくる。
その時改めて自分たちにとって週末にサッカーを見られるということがいかに大切な幸せであるかということを自分自身の心の中に認識してもらいたい。
親の存在ではないが、いて当たり前な存在ほどいなくなった喪失感というモノは大きくなる。
週末にフットボール(サッカー)がある幸せを皆で噛み締めよう。