サッカー&バスケビジネスのブログ

サッカー(ジェフ)やバスケット(SR渋谷)、スポーツビジネスについてのブログ

私的スポーツビジネス論 47 私的スポーツ・ジェンダー論

私事の話になるが、今日(2021年4月11日)なでしこの代表戦を見る予定であった。しかし今のプレイガイドは現金決済をやっていないところもあるので買えなかった。

失意の中スマホをいじっていると千葉県市原市なでしこリーグ女子サッカー2部リーグ)の試合があったので急遽錦糸町から市原まで1時間半かけて試合を見に行った。

試合結果は正直言ったしょっぱい試合であった。しかし今回ブログで書きたいところはそこではない。スポーツにおける男女格差の問題である。

3月に筆者はJ2のジェフ千葉の試合を観戦しに行った。その時の観客数が4169人であった。

しかし今回観戦した女子の2部リーグの試合は309人しかいなかった。天候もどちらも晴れで条件としてはほぼ一緒。なのにこれだけの差がついてしまう。この差はいったい何なのかと考えてしまう。

今回のことで一つ思い出してしまうことがある。2017年4月8日に女子サッカーの1部リーグの試合を習志野市で観戦しに行ったが、その試合の観客数が435人であった。その試合が昼であったのだが、試合後隣の船橋市に移動して、Bリーグ千葉ジェッツの試合を観戦したら、その試合は5215人であった。今回の人数の差もそうであるが、男子の人気スポーツと女子サッカーは10倍以上の差が集客力に表れてしまう現実がある。

最近SNSでスポーツにおける男女格差が問題となっているという報道が多い。アメリカのNCAAでも男子と女子に明らかな環境面の待遇の差があるという。

女子サッカーでもコロナ前なら日テレベレーザvsINAC神戸レオネッサの試合だと5000人の集客が可能であるが、男子ならJ2でそこそこの親会社がついているチームなら、そのくらいの集客は造作もないことである。スポーツにおけるジェンダーの格差というのは間違いなくあると言える。

正直言って女子サッカーの集客に特効薬はない。それにしても女子サッカーの世界はかなり厳しい世界であると、この世界の試合を見て5年目くらいになってつくづく痛感する。

2011年になでしこ日本代表がW杯で世界一になって、女子サッカーブームが日本を席巻したが、あれも一過性のものであったと個人的に感じる。

女子の場合、男子と違って世界一にならないと競技の存続も危ういというのは、正直客観的に見てどうかと思う。男子なんて世界一にならなくても集客できるのに………。

何の世界でも世界一になるなんて簡単にできることではないし、世界一にならないとリーグの存続が許されないというのもおかしな話だ。

話しは脱線するがサッカーの場合、今サッカー界が停滞しているのは女性をうまく取り込めていないからであるように筆者は考える。

プロ野球はなんだかんだ言って日本の娯楽の頂点にいるのは、2004年の球団合併での危機意識から女性ファンの獲得を意識して(カープ女子などその典型例である)、一家の財務省であるお母さんの財布のひもを緩めることに成功したのも成功の一因であるように見える。

今回はスポーツにおけるジェンダーについて考えてみたわけであるが、繰り返すが特効薬はない。しかしこの世の半分は女性であるわけであるから、もう少し女性のスポーツが活躍できる場もこれからは必要になっていくのではないかと筆者は考える次第である。

私的スポーツビジネス論 46 良くも悪くも閉鎖的で特殊な韓国

先に断っておくが自分は韓国という国は以前は好きであった。日韓W杯で韓国語を勉強すればスポーツビジネスの世界に入れるかもしれないという、今思うと幼稚な考え方で韓国語を独学で勉強していた時期もあるし、今の日韓関係は慢性的に最悪な状態が続いているが、それでも韓国という国は自分にとってはそこまで生理的嫌悪感がある国ではない。

しかしその一方で女性の自殺率が世界最悪だったり、出生率も低かったりネガティブな側面が見えて韓国に以前ほど興味がなくなってきたのも事実。今の自分にとって韓国は肯定も否定もしない国。かつて韓国のことを「地理的に一番近く、心理的に一番遠い国」といった人がいたが、自分にとっては近くも遠くもない単なる隣国の一つに過ぎないという感覚しかない。

さてそんな韓国。長年韓国ウオッチャーだった筆者からすると、韓国スポーツ界はいろいろな意味で閉鎖的な世界だな、といつも思ってしまう。

というのも今の韓国プロ野球がどうなのかはわからないが、一時期韓国プロ野球に移籍する外国人選手について、少し調べていた時期もあったが、10年くらい前の韓国プロ野球というのは外国人枠がわずか2しかなかった時期があった。日本に比べたら圧倒的に少ない数字であるように感じる。

サッカーに目を向けると日本代表のGKだった川口能活ジュビロでチームメートの韓国人に対して「Kリーグでプレーしたい」といったら、その選手は「川口さんは韓国ではプレーできないんです」と返した。当時のKリーグのルールではGKは韓国人しかプレーできないことになっていて、外国人GKは認めないことになっていた。Jリーグでは韓国人GKが普通にプレーできているのにKリーグは閉鎖的だなと感じたことを覚えている。

最近観戦するバスケットでも外国人枠が2しかなかった時期もあった。今のBリーグではベンチに入れる外国人選手は3だし、帰化選手やアジア枠もあるのであるが、韓国のプロバスケも閉鎖的であると思った。

後韓国のプロバスケが特殊だなと思うのは身長制限という韓国特有のルールがあって、身長が2m以下の選手でないと外国出身選手は韓国でプレーできないという決まりである(その年のルールによる)。2mちょうどというと一般人では大きいとおもうかもしれないが、バスケットの選手では小さいほうである。アジア人は骨格の面で黒人や白人に劣るので自国民保護の観点からできた特殊なルールであるように感じる。

こうして韓国のスポーツ界における特殊かつ閉鎖的なルールを上げてみたが、基本的は考え方の底流にあるのが自国民(すなわち韓国人)の保護政策であるということである。

韓国人という民族は「ウリ(私たち)」と「ナム(あいつら・よそものたち)」という線引きが日本人のそれより強くて激しい。韓国人にとって外国人というのは基本的自分たちとは違うという観点から物事を考えている。

だから自国のプロスポーツが日本の大相撲のような外国人天国になって発展するよりも狭い世界でも自国民の利益を確保するように考えるようになっている。これは日本が正しいのか韓国が正しいのかという問題ではなく、国としての価値観の違いである。どちらが正しいというものでもないのだ。

なお余談だが、このブログを書いていた数日前にサッカーの日韓戦があって日本が韓国に3-0で勝利した。韓国が弱くなったのかという話をする人がいるのであるが、所詮は親善試合である。本気モードの韓国が見たければ五輪予選かアジア大会を見ればいい。

韓国のスポーツ選手は五輪の金・銀・銅メダルかアジア大会の金メダルを取れば徴兵免除である。韓国人男性は兵役は納税と同じ国民の義務である。しかし韓国人男性はみな軍隊になんか行きたくないからこうした試合には目の色変えて頑張る。サッカーのソン・フンミンも2018年のインドネシアアジア大会で優勝して徴兵免除を勝ち取った。

他に徴兵免除のためにはサンムという韓国陸軍のスポーツ部隊が警察チームに入るしかないがいずれも狭き門である。筆者は日本人に生まれて本当に良かったと心底思っている。

今回は知っているようで知らない韓国のスポーツ界について考えてみたが、こうして文字にしてみると韓国のスポーツ界というのは改めて閉鎖的で特殊な世界だなというのをつくづく感じる。この先の日韓関係がどうなるかは凡人の筆者にはわからないがもう少し韓国のスポーツが良くなることを願うばかりである。

 

私的スポーツビジネス論 45 一人前のサポーターになりたい

自分はこういうブログを書いていたのでわかるかもしれないが、もともとスポーツビジネスの世界で働きたいと思っていた人間である。

そのために非人道的な日本の受験教育に耐えて、そこそこの大学に進学するも、当時はスポーツの世界で働くには体育大学に進学して、体育の先生になるくらいしか選択肢のない時代であったし、経済学部の自分はゼミの教授に相談してもまともに取り合ってもらえなかった。

だから自分としては日本の教育というものを信用していないし、日本にある大学のスポーツビジネス学科というのはほとんど大学が子供から金を得るための手段でしかないと考えていい。日本人があれだけ英語を勉強してもほとんどの人が英語を喋れないというのに教育界は責任を取っていないと同じで、スポーツビジネスもそもそもスポーツチームの雇用というのはほとんどが親会社の天下り縁故採用で大学のスポーツビジネス学科から就職できる人間はほとんどいないからである。スポーツビジネス学科は生徒を入れるだけ入れて就職のケアをしていない。責任放棄である。

のっけから話が脱線してしまった。筆者自身日本の教育という世界には幻滅している。結局のところ自分自身自虐的になるわけではないのであるがスポーツビジネスという世界に挫折した人間である。

そのうえでこのブログというのもそうした挫折したスポーツビジネスという世界に対して昇華したいという欲求の表れであるように感じる。

前にもこのブログで書いたことであるが、今自分はスポーツビジネスの世界の中で働きたいとは思わない。スポーツビジネスという世界はとにかく魑魅魍魎の世界である。自分みたいな人間がやっていける世界ではないのは重々承知であるし、大学のスポーツビジネス学科の人間がすぐできる世界でもないのである。

そうした中で今自分自身が何をやりたいのか問えば、一人前のサッカーファン・バスケットファンになりたいという思いだけである。

最初スポーツ選手になりたいと考え、トレーナー・通訳・球団職員を目指すもどれもうまくいかなかった。人生のタイムリミットもある。そうした中で最後に残されたものが最終的に一人前のファンになろうという考え方である。

まず一社会人として職務を全うするのが大前提として、そこで家事などもしつつ、限られた時間をやりくりして、スポーツ観戦を楽しむ。当たり前のことであるがそれを全うするのも、簡単なようで意外に難しい。

よく自分のブログに書くことであるが、勝った時に機嫌がいいだけでなく、負けた時にも善意で働いているボラスタや相手サポーターにしっかりお礼を言えるファンになりたい。試合に負けたからって暴徒化するなんてもってのほかである。

自分はスポーツの世界で挫折した人間であるがだからこそ今はしっかり一人前のサポーターになりたいと考えている次第である。

私的蹴球論 44 南米の悪いところは真似るな

以前書いた欧州は理想郷ではないにつながることではあるが、日本のサッカー界というのはもともとJFAがFIFAの会長であったブラジル人のアベランジェの庇護のもと世界のサッカー界の中で発言権を増してきて、共催とはいえ、W杯も開催できた経緯もある上に、Jリーグができた当初、ブラジルが軍政によるハイパーインフレで国内経済が破綻していたこともあって、当時の世界的なブラジル人プレーヤーがジャパンマネーによって、Jリーグでプレーすることを選んだという経緯もあったために、日本のサッカー界はブラジルありき、ブラジルのいいところは、世界のサッカーに通じるといった考え方になって言った感じがする。

そうした考え方の一部になっているのがずるがしこいという意味での「マリーシア」である。しかし一般のブラジル研究をしている学者に言わせてみれば、こうしたマリーシアという考え方(ブラジル人の中にあるマリーシアに通じるいわば「ちゃっかり思考」のことを「ジェイチーニョ」というが)も、やりすぎはよくないと考えるサッカー指導者もいる。また勝つためのぎりぎりの駆け引きは必要でも相手選手に怪我をさせるようなプレーはご法度だというブラジルサッカーの不文律もあるという。それにブラジル人のサッカー関係者も皆が皆、勝てば官軍のような考え方を持っているわけではないという意見もあった。

前述のとおり確かに日本のサッカー界はブラジル人のサッカーのエッセンスを抽出することによって、日本サッカーの強化につなげた経緯はある。しかし欧州のオシム監督が言う「日本化」を考えるうえで、難でも南米が正しいと考えるのもいい加減やめにする時期に来ているように思える。

筆者自身南米に言った経験があるわけではないのだが、南米のサッカー会場だと、スタジアムの施設の器物損壊やサポーターの乱暴行為というのも日常茶飯事であるというし、アルゼンチンでは暴徒化したサポーターに対して催涙弾を打つこともあるという。もちろん会場の使用状況も衛生的ではないという。クラブW杯の南米代表のサポーターの狼藉もある。南米のサッカーというのは確かに素晴らしいサッカーをしているのは事実であるがこうした部分を真似る日本のサッカーファンというのは本当に愚かであると以下言いようがない。

日本のサッカーメディアというのは何でも欧州は日本にはない理想郷だと考えたり、南米に比べたら、日本のサッカーは後進国であるという意見は多いし、それ自体が一概に間違っているとも思えない。

しかし南米の悪いところは真似をしないほうがいいのである。それだけは今回伝えたいことである。なんでもかんでも海外志向を持てばいいという日本人特有の海外称賛ももうやめにしよう。

 

 

私的スポーツビジネス論 44 スポーツビジネスは修羅場な世界

筆者自身も若いころからスポーツビジネスという特殊な世界に興味をもって早20年。若いころはスポーツビジネスをやりたいと言っても、大学に言ったところで全く相手にされず、大学の科目でも体育学部で体育教師になるくらいしか選択肢はなかったのであるが、今では日本中の大学にスポーツビジネス学科が存在し、大きな本屋に行けばスポーツビジネスの専門の棚まで存在し、自分自身もこんな時代に生まれたかったと思うことは多い。

しかしその一方でスポーツビジネスという世界は実際のところはっきり言って激務の世界であって、今自分がやりたいかと言われれば、おそらく無理であろうと答えるしかない。

先日もSR渋谷の試合を見に行ったのであるが、水曜日のナイトゲーム。試合終了は当然ながら午後9時過ぎ。単なる客である筆者としては試合が終われば、すぐに帰宅すればいいだけであるが、ボランティアスタッフやフロントとしては、試合が終わっても後片付けや会場の清掃などやらなければいけないことは山ほどある。2時間かかったとして会場を出るのは午後11時。この日見たのは墨田区体育館であるので、東東京のハブ駅である錦糸町駅から徒歩3分という好立地だからいいものの、Jリーグなどではハブ駅からバスで40分という会場のほうが多いくらい。何のスポーツでも試合の日はフロントは39度の熱があっても休めない。ボラスタやフロントとは好きなだけではできないというのを、この日見たバスケの試合で強く感じた次第であった。

先日、仕事でお世話になっているサッカーファンの男性に話したことであるが「自分はスポーツが好きでスポーツビジネスをやりたかったのであるが、でも競馬が好きだからと言って騎手になれるか?パチンコが好きだからと言ってパチンコ屋を経営できるか?キャバクラが好きだからと言ってキャバクラを経営できるか?と言えば違うと思う。好きだからと言ってその仕事ができるか問えばそうではない。娯楽を仕事にできる人間はごくわずかで、それはすごく特殊な能力を持った人にしかできない仕事であるのだ」と自分は言った。

相手は好きではないとできない仕事であろうとも返されたが、少なくとも好きなだけではできない世界である。

そんな中でBリーグの某クラブの外国籍選手が麻薬の所持で地元の県警に逮捕されるというニュースがあった。

そのクラブのGMは当然引責辞任。再発防止にも動かないといけない。イメージダウンも計り知れない。数年前にはバスケ日本代表が遠征先で集団売春したスキャンダルがあって、当該選手の1年間の出場停止もあった。こうしたことがスポーツビジネスの現実である。

よく日本の大学でスポーツビジネスは楽しい世界みたいなことを言う上っ面なキャッチコピーがあるが現実のスポーツビジネスは実際のところ修羅場続きの仕事である。

今思うと負け惜しみでもなんでもなくスポーツビジネスに入らなくてよかったのかもしれない。プロスポーツ自体は楽しいのであるが、それを生業にするにはあまりにも過酷な世界である。

芸事を仕事にするのはなんでも厳しいのであるが、特にスポーツビジネスという仕事は修羅場な世界な気がする。

私的蹴球論 43 欧州は理想郷ではない

日本のサッカー界もそれまで好事家の楽しみであった特殊な世界から、メジャーな娯楽になってから、もうじき30年近くになる。

今までは一部のサッカー専門誌にマニアックな情報源としてでしか載っていなかった、欧州や南米のサッカー界も今や一般紙やSNSやネットで情報が洪水のようにあふれて、当たり前のように欧州サッカーの知識も入ってきて、サッカーという競技が日本社会に市民権を得られたように見える気がする。

しかし、その一方で日本のサッカー界が欧州や南米の社会に対して、未だに上っ面な表面的な考え方に終始している部分もあるように見受けられる。

その例がスペインである。よくバルサやレアルのサッカーは素晴らしいという記事は多くあるものの、スペイン自体失業率という意味では日本よりはるかに高く(スペイン16.2%、日本3.0%)、若年層の失業率で言えば、その差はより顕著に表れる(スペイン40.4%、日本4.2%)。

そもそもスペインという国自体フランシスコ・フランコ独裁政権が彼の死をもって1975年に終わるまで民主化ができずに、近代化という意味でも他の欧州各国に比べて遅れている国である。日本のサッカーメディアはそうしたスペイン内部のネガティブな部分を見ようとはしない。

またよく日本人は欧州を一括りにする傾向にあるが、同じ欧州でもイギリス(英国国教会)・イタリア(カトリック)・ドイツ(プロテスタント)・ロシア(東方正教会)と同じ欧州でも信仰する宗教も言語も異なるので、一つの欧州と考えるのは無理がある。

歴史的に見ても、宗教と歴史と個人の欲望によって国境が塗り替えられてきた経緯がある。昔の日本人経営者で「欧州の歴史は分裂と統合の繰り返しだ」といった人がいたがそのとおりである。

逆に言えば、欧米人してもアジア人というが、同じアジアでも日本と中国・インド・中東では同じアジアでも価値観が全然違うのは周知のとおり。欧米人が日本やアジアを理解していないように,日本人もまた欧州を理解していないし,理解しようともしていない。そしてサッカーメディアもまた、そうした本質的な部分の追及をしようとしない。

なんとなく欧州は素晴らしい、欧州は日本にはない理想郷だと繰り返す。それではサッカーの本質には近づけない。

よく欧州の人間で「自分の国もサッカーはあるが、日本のJリーグのほうがすぐれている.スタジアムも衛生的で清潔.暴動もないし落ち着いて試合を楽しめる」という話は多い。劣悪な環境と暴力の多いサッカースタジアムも欧州には少なからずある。日本のサッカーメディアはなんでも欧州というが、欧州が理想郷というわけでもないのである。

今回は日本のサッカー界に多い「欧州原理主義」について考えてみたわけであるが、勿論欧州のほうがプレーの水準は高いし、サッカーの現金化も進んでいる。しかしすべてにおいて欧州が日本より優れているわけではないのだ。

私的蹴球論 42 酷暑という気候変動と秋春制

このブログを書いているときは、2021年3月6日なわけであるが、ここ数年の日本の気候変動というのは、すこし(かなり?)異常な気がする。

3月だというのに半袖で生活するのが当たり前だし、うっすら感じていることでもあるのだが、今の日本というのは温暖化というのが激しい気がする。

筆者自身ここ数年のスポーツのカレンダーといえば、2月3月のうちにジェフの試合をできるだけ観戦して、4月5月に地域リーグを観戦する。6月上旬くらいでサッカー観戦を基本的に一時中断して、自宅でクーラー三昧の生活をする。

9月の残暑に体調を崩すの見越して会社の休みを入れて、10月くらいからBリーグ観戦と並行して、ジェフ観戦を再開。11月くらいにジェフを観戦し終えて、12月から良く年2月くらいまでBリーグ観戦というのが、基本的な流れになっている。

正直10年前くらいまでにはサッカー秋春制というのが、学生カレンダーとの矛盾を孕んだサッカーマニアの妄想だとたかをくくっていたが、ここ数年の酷暑を考えると、学生カレンダーとの矛盾を議論したうえでも、サッカーは秋春制のほうがいいのではないかと感じてしまうくらい、ここ数年の酷暑は生命の危険を感じてしまう。今の日本の夏にサッカーなんてしないほうがいいと痛切に感じてしまう今日この頃である。

そうした中で2021年9月から女子のプロサッカーリーグのWEリーグが開幕するわけであるが、こちらを秋春制にしたというのもJFAが日本のサッカーカレンダーを秋春制にしたいと考えたうえでの、いわば実験なのかなと感じてしまう。

正直組織内部の問題は多いJFAであるが、今回のWEリーグの秋春制というのは、やってみてもいいのではないかという淡い期待感を筆者自身は持ってしまう部分もある。

もちろんヨーロッパのサッカーというのがなんでも正しいわけではないであろうし、日本のサッカー界の場合、高校サッカー冬の選手権というキラーコンテンツの存在もある。学生サッカーと秋春制の矛盾というというのをどう議論して、どう克服していくかというのは、JFAだけでなく、日本のサッカー関係者全体で活発な議論が必要な世界であるような気がする。

妄想とののしられてもいいのであるが、日本の場合、秋にサッカーのシーズンを始めて、ヨーロッパのように厳冬期にウインターブレイクをいれて3月くらいからシーズンを再開して6月くらいにシーズン終了というのもいいかもしれない。これもWEリーグというサッカー界における社会実験がどう作用するかにかかっている。

今回は酷暑と秋春制について考えてみたわけであるが、正直サッカーの試合中に不慮の事故なんてまっぴらごめんであるから、日本のサッカー界全体で仕合にたいする暑熱対策は必要な気がする。このブログの読者の皆さんはいかがお考えでしょうか?