サッカー&バスケビジネスのブログ

サッカー(ジェフ)やバスケット(SR渋谷)、スポーツビジネスについてのブログ

私的蹴球論 41 サポーターにも波がある。

私事で恐縮であるが、先日仕事でヘマをやらかした。仕事とは関係のない知人は「そんなこと関係ないよ」と言ってくれるし、職場の先輩は「ヘマ自体たいしたことではないので気にしないように」とはいうものの、基本的に気にするタイプなので結構引きずった。

そうした中でメンタルが回復した中で今度は老齢の母がギックリ腰を患う。今年も序盤戦は完全に躓いた感じはする。

しかも今現在(2021年2月27日に執筆)緊急事態宣言も出ているから、ジェフの試合もいけないし、まだシーズンも始まっていないというのに、結構打ちのめされている感じがする。

本来こうしたときのためにプロスポーツというものがあるのであるが、このコロナという事態において、ガス抜きができないということが想像以上にストレスになっている感じも否めない。

このブログでも結構書いていることであるが、かつて筆者はボクシングに傾倒していたころもあった。

その時の自分を「ボクシング原理主義者」というのであるが、今思うとボクシングと自分の距離が近づきすぎていたし、ボクシング自体も理解していなかったので、単なるポンコツにしか過ぎなかった。

そして異常な熱量でボクシングと接していたのであるが、ボクシング界のスキャンダルを境にボクシングという競技に急速に熱が冷めていくようになったのを感じ、基本的にこのブログではボクシングのことは書かなくなっていった。

サッカー(ジェフ)のこともそうであるが、1990年代もちょくちょく市原臨海に言って試合を見に行ったこともあったし、オシム時代も楽しかった。

ジェフの試合を見るようになって本腰を入れるようになったのは、2010年代前半であったが、この時は家が(本拠地の)蘇我にあればどれだけ楽しいかと本気で考えていた時期でもある。

またその一方でジェフを応援していても一向に昇格しないので、自分自身を責めた時期でもあった。

その時に野田サトルの「スピナマラダ」というアイスホッケー漫画でスポーツにとって勝敗以上に一番何が大切なのかということを教えてもらったので、ジェフはグズグズでも、サポーターをするのに吹っ切れた感じもする。

しかし2017年くらいから地域リーグを見るようになって、すこし自宅のある錦糸町から千葉まで疎遠になったのも事実。

地域リーグに傾倒するようになってから、今回のコロナ騒動。またジェフに対する回帰が進んだ。

今回はプライベートのごたごたもあってネタ切れ感もあるので過去の自分を振り返ってみたのであるが、自分はブレない人間だと思っていた一方で、こうやって書いてみるとぶれが大きいし、またどれだけ熱量の大きいサポーターであっても、仕事や人間関係の問題などで、サッカーに集中できない時期があって当然でもある。年を取れば身内の介護や死もあるし。

今回はそんな自分史について書いてみたわけだるが、自己満足であるのは重々承知であるが、へこむこともあったので、自分を振り返るのもいい機会でよかった気もする。また何かしらのサポーター論について、書いていってみたいものである。

私的蹴球論 40 私的外国人GK論

昨年のことになるがオルンガを見に横浜FC対柏の試合を見に行った。その試合でオルンガ自体もよかったのだが、もう一人目に入った選手がいた。

それは柏のGKで韓国代表のゴールマウスも守るキム・スンギュである。

キムの良さというのはまず外国人でありながら、DFラインとの指示の出し方というのが非常にうまい。いい意味でどっしりしている。安定している。

身内をけなすわけではないが、ジェフやほかのJ2のGKの場合だと、妙な隙間が生れることもあるのだが、キムの場合はそれがない。細かいコーチングでDFラインの微調整をして、DFの裏を取られない工夫と危機管理を90分常にしている。だから楔のボールが入っても危なげなく処理できる。

その上でハイボールや引く弾道のボールの処理も問題ない。GKとしての質が非常に高い選手である。

その一方でジェフにも近年外国人GKがかつて存在した。メキシコ人のオヘーダとアルゼンチンの世代別代表のGKであるロドリゲスである。

ここではロドリゲスに注目したいが、ロドリゲスは瞬発力に優れていて、飛び出しの速さは鋭いものがあった。

しかしGKの能力というのは飛び出しの能力だけ高ければいいのかといえばそうではない。

GKにとって最も大事なのはキャッチングも重要であるが、DFラインの統率力である。正直に言ってキムにはあって、ロドリゲスにはそれがなかった。

筆者自身韓国語もスペイン語も両方やっていたのであるが、韓国人は日本語と共通の単語(「約束」「無理」)があって、習得しやすい一方で、スペイン語は文法の習得に時間がかかり日本語との共通する言語もないので日本人とスペイン語圏の人間との意思の疎通は日韓のそれに比べてはるかに難しい。

今の時代、色々なジャンルで異文化コミュニケーションの重要性ということが声高に言われているが、そういう意味でのアドバンテージという意味ではキムのほうが優れているし、有利でもあったということだ。

GKとのコーチングの場合、特に自分のチームのCBとの意思の疎通が重要になってくるが、ジェフのフロントの場合、ロドリゲスの身体能力ばかりに気を取られて、コミュニケーション能力まではリサーチしなかったのが、この補強の失敗の要因であったように思われる。

昨年観戦した、横浜FC対柏の試合でオルンガとは別にキム・スンギュもまた見てよかったなと思える選手であった。サッカーを見ていて20年以上たつのであるがGKを見て金がとれる選手だなと感じたのは、このキムが初めてであった。

今回は外国人GKについて考えてみたわけであるが、昔日本代表GKの川口能活が「GKというポジションは点を取るという意味では観客と同じで祈るしかない」と言っていたのだが、しかしそんなGKもチームにいなくては絶対勝てない存在である。GKは家を守るような存在だというが、そうした安定感のあるGKはどこの国の選手であれ重要である。

私的スポーツビジネス論 43 筋肉

筆者自身アラフォーになって若い時には当たり前にあったような、健康や元気というのが、この年になると維持するだけでこんな苦労するとは思わなかった。若い人からすると年末になると出てくるアイドルのカレンダーの中に38歳の深田恭子がいても、単なる選択肢の一つにしか思わないであろうが、同年代の身からすると、この女はどれだけストイックな節制をしているのか?と性的欲求よりも人間としての敬意のほうが勝ってしまう今日この頃である。

さて、そうした中での今回のタイトルにある「筋肉」であるが、アイドルやモデルが新陳代謝を活発にさせて、肌つやをきれいにさせる筋肉やトレーニングが必要なように、アスリートに必要な筋肉というのもまたそれぞれ違ってくる。

昔のボクシングネタで恐縮であるが、かつてある札幌のジムにマッチョなボクサーがいて、その選手のあだ名が「ヘラクレス」。

彫刻刀で彫ったような屈強な肉体美。盛り上がった大胸筋。シックスパックされた腹筋。ボクサーの腹筋はシックスパックされて当然であるが、その選手の鍛え抜かれた身体はほかのボクサーと比べてもひと際目立ったものである。

では、そのヘラクレスの戦績はどうだったかといえば、勝ったり負けたりの冴えない戦績であってチャンピオンベルトとは程遠いボクサーであった。

一方で東京に木村悠というボクサーがいた。名門ジム所属で大学アマからの転向組であったが、ほかにも有望株は多く、正直いってボクサーとしては無印の選手であった。

ぱっと見はとにかく非力。当然シックスパックはされているもボクサーとしては貧相な身体で、実際にパンチ力もほとんどなく手打ちでほとんどが判定勝ち。木村が前座に出ているときなど、筆者は正直試合を見ないでメインの前に混む前のトイレに行っていたくらいであった。

しかしそんな木村が記念受験のような世界タイトル挑戦でまさかの戴冠。もちろん得意の判定勝ち。この木村のタイトルマッチを生観戦したわけではないのだが、ボクシングと筋肉の量というのは必ずしも、相関関係にあるわけではないのだし、もっと言えばよくボクシングは喧嘩だと勘違いしている輩もいるが、色々な意味でボクシングと喧嘩は全くの別物であるということがよく分かった。

今回はかつてやっていたボクシングをたとえに出してスポーツにおける筋肉の説明をしてみたが、こうした事柄というのは何も格闘技に限らずサッカーでも同じな気がする。

よくサッカーのFWで筋肉を無駄につけてしまって、本当に必要なアジリティー(敏捷性)を失ってしまったという話はよく聞くし、ボディービルダーみたいな肉体美が必要な世界というのはボディービルダーの世界だけなのであろう。

今回はアスリートにおける筋肉について考えてみたわけであるが、やみくもに筋肉をつければスポーツの結果が出るわけはないので、若いアスリートはご用心!

私的蹴球論 39 サッカー監督の脱亜入欧コミュニケーション論

冒頭のタイトルに関してなんぞやと思うこともあるだろうが、とりあえずご清聴願いたい。

筆者は10代のころから外国語を勉強していて今でもやっている。日本人の場合英語を勉強するのに聞き流して発音だけできれば何とかなると考えている錯覚を起こす人は多いが、外国語でコミュニケーションをするというのは、そんな表面的なことではない。

外国語を学習するというのは考えてみれば、外国のカルチャーををそのまま受け入れて、自分の頭の中に咀嚼するということである。上から目線で恐縮であるが、そうしたことがわかっていない日本人は本当に多い。

今回はヨーロッパ人サッカー監督がアジアの文化をどう受け入れて、その文化を変えてきたかについて考えていきたい。

まず日本人についてであるが、日韓W杯の時のフランス人監督のフィリップ・トルシエがいる。

トルシエという監督はいわゆる日本人的なオブラートに言葉を包んで表現するということが自分の頭の中にない男である。

とにかく頭の中に思ったことをはっきり言う。よく言えば率直。悪く言えば無神経。相手に嫌われる、傷つくなんて関係ない。遠慮なくモノをいう。

そうした中でトルシエを招聘した当初は日本サッカー協会も気を遣って遠回しな日本人特有の婉曲な表現に終始していた。

しかしトルシエははっきりモノを言うのをやめない。そうした中で協会幹部もついに堪忍袋の緒が切れて、率直にトルシエに関してどんどん意見を言うようになった。

するとトルシエは嫌な顔一つせず、むしろすっきりした表情で「ようやく日本人も自分に本音を語ってくれてうれしいよ」と喜んでくれたという。

同じような日本とヨーロッパの表現方法の違いというのはオシム監督がいた旧ユーゴスラビアでも同様なことがあり、オシム監督の猛練習に選手が悲鳴を上げて主将が練習量を減らしてくれと頼んだら、オシム監督は「お前が監督だったらそうすればいい」と何の配慮もない発言をして日本人選手を驚かせたという。

こうしたヨーロッパとアジアの文化の違いを壊したのは日韓W杯の時の韓国代表監督のフース・ヒディングもそうである。

ヒディングが韓国代表の練習を見ていて、韓国語特有のやたら年長者を敬う遠回しな敬語をプレーの間に使っているのに気が付いた。

一瞬一瞬のの判断のスピードが要求されるサッカーでまどろっこしい敬語を使って時間を浪費するのは愚の骨頂だとヨーロッパ人のヒディングは考える。

ヒディングはある時ミーティングで「これからチームでは年上年下関係なく言葉は全部簡略化されたパンマル(ため口)で話せ」と命令した。

これは韓国社会にとっては劇薬である。一つでも年上の人間を尊ぶ韓国社会でチームの先輩にパンマルを利くのは無礼千万にもほどがある。しかし監督はオランダ人のヒディング。若手選手からしたら失礼を承知でも先輩にパンマルを利くしかない。

仕方なくある若手選手が先輩にパンマルで話しかけた。当然先輩はキレだす。しかし若手は監督がそういっているからそうするしかないと引かない。

こうした韓国の儒教社会特有の縦社会を壊すのにもヒディングは苦労したという。

今回はヨーロッパ人のサッカー監督がアジアで仕事をするときにアジアでは常識的なその国特有のローカルルールが存在し、それがサッカーでの勝利に対する阻害要因になるときもあるので、時には相手国の異文化コミュニケーションとして自分の価値観を押し通す必要もあるのだ。

外国語を学んだりすることが多い自分であるが、こうしたサッカー監督の異文化コミュニケーション論を見るたびに、外国を知るというのは単に言葉を知るだけではなく、その国の文化を受け入れる必要もあるのだなとつくづく感じる昨今である。

私的スポーツビジネス論 41 スポーツは身体に悪い

少し前の話になってしまうが、2020年11月にアルゼンチンのマラドーナが享年60歳で亡くなり、それを追うように12月にはイタリアのW杯得点王であるパオロ・ロッシも64年の生涯に幕を閉じた。

筆者自身サッカーも好きだし、ほかのスポーツのニュースなども追いかけているのであるが、最近よく思うのだが、サッカーに限らずスポーツ選手というのは押しなべて短命であるように感じる。

筆者自身かつてボクシングをやっていたのだが、初めて会った歯医者にボクシングをやっていますと言ったら、初対面なのに「今すぐやめろ」と言われた。

理由を訊くと「相撲取りとボクサーというのは短命になるんだ」と言っていた。

しかし筆者もボクシングを引退して様々なスポーツの情報を調べたり、本を読んでいたりすると感じるのだが、スポーツというのは、相撲やボクシングに限らず、皆短命で体に悪い。

今頭に思い浮かべられるだけでも、野球の稲尾和久衣笠祥雄、プロレスのカール・ゴッチ、相撲の千代の富士……。

それぞれ現役時代は超人的な肉体をもってして伝説の名をほしいままにしたスポーツエリートであったが、今は全員鬼籍に入っている。

よくマラソンランナーはスポーツ心臓になって激しすぎる運動が、引退して普通の生活になると心臓の血流がうまく回らなくなって、心不全で亡くなってしまうんだという話を聞いているのだが、知っているボクサーでも現役引退後に同様に激しい運動によるスポーツ心臓から、一般生活に心臓の循環器系が適応できずに突然死をした選手を自分も知っている。

話しをサッカーに戻そう。マラドーナの場合、正直スポーツ心臓ということもあったが、禁止薬物の使用や引退後の自堕落な不摂生な食生活など、正直マラドーナの一報が入ったときは悲しいというよりも、因果応報だなと思った。

手塚治虫ブラックジャックでプロレスラーになれるくらいの身体能力の高い大男も心臓の強すぎる部分が逆にあだとなり、ブラックジャックが一般の仕事に転職を進めるシーンがあったのを(うる覚えだが)覚えているが、スポーツの世界で結果を出す心臓というのと実社会で長生きする心臓というのは基本的に異質なものであり、バリバリのスポーツエリートが病気しないのかといえばむしろそうではなく、競技にもよるが体脂肪率が低すぎる分、脂肪による体温の保温効果もなくむしろ風邪をひきやすい。何事もそうだが「過ぎたるは及ばざるがごとし」なのである。

今回はサッカーを中心にしたスポーツというのはハードにやりすぎるとむしろ身体に悪く短命になるという話をしたが、身体を鍛えまくれば長寿になると勘違いしているメディアのニュースが多い昨今であるが、本質的にスポーツは身体に悪いものなのである。

 

私的蹴球論 38 堂安律と堂安憂

堂安律。今更こんなブログで紹介する必要もないくらい有名なサッカーの現役日本代表FW。現在はドイツ・ブンデスリーガでプレーしている世代別の代表にも選ばれた日本サッカー界の至宝。堂安律のことを知りたければ、筆者のブログを読むより,wikipediaやNUMBERでも読めばいくらでも出ている。

堂安憂。WHO?彼は堂安律の実兄である。ガンバユースの律とは違い、憂は高校サッカーで冬の選手権で全国大会に出場し、(余談だが律はガンバだが、憂は育成世代の時はセレッソの下部組織にいた)、関西のスポーツ強豪大学を経て、J3長野パルセイロに入団するも、契約満了。関西リーグでプレーした後、今シーズンに引退を表明した。

筆者はこの事実について二つのことについて言及していきたい。

一つ目は、よくJ3はレベルが低いというが、それは否定はしないが、J3リーガーであろうが、ブンデスリーガーであろうが、子供のころの育成に対する金のかかり方というのはほとんど変わらない、ということである。

筆者自身は独身であるので子育ての経験はないのだが、基本的に親というのは長男も次男も同じくらいかわいいものなので、程度の差はあれど、そこまで才能の差で教育費に差をつけないはずである。

それもそうだが高校サッカーやサッカー強豪大学への学費というのも相当高額である。よくJ3に対して否定的な意見も多いが、このクラスの選手でも高校サッカーでは上位進出できるくらいの実力者というのはゴロゴロいるのである。

また相当親がサッカーに金をかけてもそれに見合ったリターンがない選手というのは本当に多いということも分かる。

もう一つ言及したいことが「次男は長男よりサッカーがうまくなる」理論である。

よくこうした理論をしたり顔で言う人間がいるが、配慮の足らない言動であると思ってしまう。

確かに堂安憂というプレーヤーは世間から目を向けられずひっそりと引退したのかもしれない。しかし長男の人生というのは決して次男の捨て石などではない。またサッカー選手を引退しても次の人生のほうが長いのである。

確かに堂安律のプレーというのは素晴らしいし、日本代表としても期待してしまう部分も大いにある。

でも次男のほうが長男が優位だと言って自分はサッカー通だと思っている人間は、世の中にはサッカーよりももう少し大事なことがあるということに気づくべきである。

自分は堂安家の両親ではないが、次男は長男よりも成績優秀だから次男のほうがかわいいということにはならないであろう。親ならサッカーの成績に関わらず、長男も次男も同じくらいかわいいと思うはずだ。

筆者自身は核家族化が進む現代では絶滅危惧種である三男であるが、スポーツでは全く成功していない。だから「次男優位論」にはいつも異議を唱えたくなる。

今回はサッカー日本代表の兄弟にまつわる話について、日本のサッカー界の問題をとらえてみたが、日本のサッカーメディアは結果至上主義が高ずるあまり何か大切なことを見落としているような気がする。

筆者自身堂安律には大きな期待をしているのだが、その一方で見落としてはいけないものもあるような気がしてならない。サッカーは華やかな日本代表だけではない。

私的スポーツビジネス論 41 タトゥー問題を考える

少し前の話になるのだが、ボクシングの世界戦で井岡一翔がかなり大きいタトゥーを彫って、JBCから処分が下るという話があった。

個人的な話をすれば、自分はもうボクシングから足を洗った人間であるし、試合と関係ない場外乱闘のような醜聞には興味もないのだが、世間が防衛戦の結果以上にこのネタに食いついているので、少し考えてみることにした。

もともとボクシングというスポーツは悪い意味でスポーツではないと筆者は考えている。

というのも、ボクシングという世界はそもそも暴走族や元ヤクザみたいな選手も普通にいるし(逆に東大医学部に在籍していたボクサーもいる)、プロになるためのハードルも野球やサッカー・ゴルフ等に比べればかなり低い競技なので、もっと言えばちょっと練習すれば元甲子園球児クラスならプロの4回戦にはなれるので、そうなるとボクシングには普通の競技には居ないような輩もいる。

さて、そこを踏まえたうえでのタトゥーの話だが、筆者も一時期狂ったようにボクシングを後楽園ホールや海外まで試合観戦しに行った身である。当然今回のようなタトゥーを入れたボクサーというのも沢山見てきた。

そうしたタトゥーの入ったボクサーにも色々でてくる。こうした選手は大まかに二つのグループに分けることができる。

一つ目はタトゥーというのが、そもそも裏社会のイメージのない民族の選手である。ボクシングで言えばフィリピンやタイ・アメリカの選手がそういったタトゥーを入れていて普通に試合をしていて、何の問題もなく祖国へ帰っていった。

たまに海外から呼ばれた選手に全身タトゥーの選手もいるが(意外と関係者もタトゥー有無までは把握できていない。リングで重要なのは実力や相性であって、タトゥーの有無ではない)、こうした選手はとりあえず試合をした後、次回からは来日禁止処分にするケースが多い。

よくアメリカ人の若者が彼女の名前をタトゥーにして、その後こっぴどい別れ方をするというのはよく聞くが、良くも悪くもタトゥーをファッションの一部にしか考えていない人たちの価値観である。

またボクシングではないものの、2019年のラグビーW杯で南太平洋のラガーマンというのは裏社会と関わりがなくてもタトゥーを入れていたし、彼らのタトゥーはそういうものだと思われていた(と筆者は考えている)。

二つ目はいわゆる「昔はやんちゃをしていました」系の選手である。言葉を換えれば「若気の至り」でタトゥーを入れた選手である。

井岡一翔に限らず日本国内の選手はどちらかというと後者の選手が多い気がする。タトゥーを入れて許されること存在にはなっても愛される存在にはならないのが、基本的にはこの国のタトゥーに対する捉え方である。

要は今回のタトゥー問題は日本のボクシング界がタトゥーというものを民族的な伝統とするか裏社会との関わりの象徴と捉えるのかを曖昧にしたまま世界戦にまで行ってしまって、それがこうした騒動になってしまった感はある。

ただ矛盾をするような言い方をしてなんだが、日本国内でもタトゥーを入れたボクサーが必ずしも全員裏社会の人間とは限らないのも事実。文字通り前述の単なる若気の至りに過ぎない選手のほうが圧倒的に多い。

ただボクシング界も一時期ダーティーなイメージがあったのも事実なので、そうしたネガティヴなものを少しでも排除したいという意思がJBCの処分になるならないという話になった部分もある。

今回は筆者の本来のテーマではないボクシングの話になったわけであるが、個人的には井岡一翔が裏社会とどうのこうのというよりは、日本のボクシング界というのがタトゥーというものの在り方をどう捉えるかというのをうやむやにし続けていたのが、こうした紛糾という形になって出てきた気がする。

筆者自身ボクシングから身を引いたので、これ以上どうこう思うこともないのであるが、ボクシング界もいい加減こうした試合以外の揉め事ではなく、ファイトの部分で、日本人の耳目を集めるようになってもらいたい次第である。