私的蹴球論1 サポーターとは
こうした平成最後の日にブログをつらつらと書き始めた訳であるが、近年のサッカーについて思うところがあるので、いろいろと徒然なるままに書き記していきたい。
今回考えてみたのはズバリ「サポーター」である。サポーターとはかくあるべきかということを思案してみたい。
昔筆者はスポーツチームのフロントに入りたかった。以前別の無料ブログでスポーツのブログを書いていたので、スポーツビジネスのことを調べてはいたのだが、フロントというのは残業も多く、実入りも少なく、お世辞にも待遇の良い職場とはいえない。
当時、スポーツにかかわるというのが自分の夢であったが今思えばこの若者特有の視野の狭さが、自分の可能性までも狭めてしまった感があるのは否めない。
そうした中2018年6月に朝日新聞出版から刊行された「ディス・イズ・ザ・ディ」という小説はプロサッカー二部リーグのサポーターを主人公にした小説で、普通だとサッカーの選手や監督といった表方の人間にフォーカスされるのが一般的なのだが、この小説は名もない一般市民のサポーターが主人公になっているのが特徴である。
この小説を読んで「若い時にこの小説が漫画化されて読めていればなぁ」と思わずにはいられない。
自分の中でサポーターというのは選手や指導者・フロントに比べて、一段低い立場の存在だ、と勝手に考えていたのだが、それは大きな誤解であった。
サッカーではないのだがプロ野球広島カープの女性ファン、いわゆる「カープ女子」の漫画でもある「球場ラヴァーズ」やプロサッカー二部リーグ木更津FCの女子高生サポの「サポルト」などポーツのファンやサポーターを主人公にした作品が2010年代は多数輩出した感がある。
サポーターというのはそのチームにとって一番偉い存在ではない。客だから何をしてもいいというわけでもない。サポーター自身の存在というのは自分含めてとてもちっぽけな存在である。
しかし昔精神科医で作家のなだいなだ氏が「自分の存在は無力だが価値はある」という言葉を残したが、サポーターという存在もまた無力だが価値があるという意味では共通する。
サポーターというぞんざいは大河に流れる一滴の水滴のように些細な存在である。しかしそうした一方でそんな存在でもチームにとってはものすごく必要不可欠な存在であるのを忘れてはいけない。