サッカー&バスケビジネスのブログ

サッカー(ジェフ)やバスケット(SR渋谷)、スポーツビジネスについてのブログ

私的スポーツビジネス論 52 スポーツ漫画は妄想の産物

よく人の人生は物語であると言われるのであるが、筆者自身の人生は漫画であるし、実際に漫画に影響された人生であると言っても過言ではない。

小学生のころにドカベンを読んで少年野球をやっていたし(ライパチ)、中学校では柔道部物語の影響で柔道部に入部(団体戦で県大会出場するレベルで次鋒)、高校は怪我で帰宅部であったが、大学進学時にはじめの一歩の影響でボクシングをする。

ボクシングに関しては全く才能のない選手であった。しかし漫画の影響でボクシング強豪国であるタイやフィリピンに言って練習をしたり、今思っても漫画の影響ばかりうける思い付きの人生のバカであったと自認する(お父さん、お母さん心配ばかりかけてごめんなさい)。

しかし筆者自身も不惑を超えて久しくなり、物ごとの理をそれなりに理解するようになって改めて思うのだが、今更なことであるがスポーツ漫画というのは結局のところ妄想の産物であるということである。

よく恋愛漫画を読むと女性向け漫画の男子は八頭身のあごのとがったイケメンで家事も話もうまく、男性向けの女子は、妙に胸が大きい美少女で家事ができる設定が多い。どちらにしろ自分たちの都合に合わせた存在をパートナーにしたいという欲求しか感じられない。

スポーツ漫画も考えてみれば同じことかもしれない。作者の理想の試合があり、その欲求を具現したいという妄想の産物がスポーツ漫画なのである。

今思うと前述のはじめの一歩というのはその最たる森川ジョージの妄想の産物のように思えてならない。

筆者自身この漫画の影響を受けて20年間ボクシングとかかわったが、この漫画みたいなドラマチックな試合というのは何百何千という試合をそれこそ海外まで試合を観戦しに行ってまでエネルギーを費やしたが、現実のボクシングの試合ではほとんどお目にかかったことはなかった。

よく森川ジョージのボクシングの試合は1ラウンド決着の試合が多くて、筆者自身もそれが一番いい試合だと思っていたこともあったが、現実問題実際に1万円もお金を費やして1分で試合が終わったら客としてはたまったものではない。この漫画の傾向は森川自身が速戦即決型の天才であるマイク・タイソンを崇拝していたから、自身の作品のキャラクターにも自分の試合で秒殺するボクサーが出てきてほしいと考えて、そうしてああいう試合展開になっていったように感じる。

実際の後楽園ホールのボクシングというのは高いチケット代に見合わないような、どうしようもないような凡戦がほとんどであり、最近では結局この漫画の試合というのは妄想だったなとしか思えない。

筆者が最近エネルギーを注入しているサッカーの世界もサッカー漫画自体に言えることであるが、実際にはあんなに面白い試合ばっかりということはないよなと最近は思うようになってきたし、サッカー漫画自体は大好きだしリスペクトできるが、実在するサッカー選手は漫画のキャラクターのそれよりももっと幼いように感じることもしばしばある。

実際のサッカー選手はサッカーの世界以外を知らない人がほとんどであるし、オリンピックでのスポーツ団体全体にも言えることであるが、競技団体の狭いムラ社会と現実の社会のずれというのは大きいし、それが2018年のスポーツ界全体の不祥事の連発につながったように思える。

脱線した話をスポーツ漫画の戻そう。筆者自身今も昔もスポーツ漫画は好きだし、新しく始まったサッカー漫画は基本的に紙で目を通すようにしてる。スポーツ漫画にも漫画家にもリスペクトはしている。

しかし当たり前の話であるが漫画は結局漫画であるし、前述の恋愛漫画と同様に、結局はは試合展開自体は作り手や読み手のご都合主義であると踏まえて読んでいった方が無難な気がする。この年になっていうのもなんであるが現実と空想は所詮別物である。

私的スポーツビジネス論 51 アスリートの敵

のっけから大仰な話になるが、今回は自分の格闘家時代の経験に基づく話をしていきたい。

筆者自身中学生時代柔道部にいた。同じ柔道部にKという柔道センスの塊のような部員がいた。

とにかく技のキレやコピーする能力にたけていて、一度かけた技はすぐに対処する柔道家に必要な反射神経も高く、筆者も柔道を始めたばかりでありながらも「こいつは柔道センスの塊だな」と思った。

しかしKは天才にありがちな練習嫌い。しかも顔の彫りが深いタイプのイケメンで話もうまい。当然女にもモテる。いつしか柔道部で埋もれた存在になっていってしまった。

その後筆者は転校をして別の柔道日に入部した。そこにSという重量級の選手がいた。Sは超人ハルクを思わせる怪力自慢。同点になれば大将戦にいけばSで勝ちだ、というくらい絶対的な選手であった。

そうしたSは高校進学に柔道の推薦で強豪校に入部。しかし高校に入り始めて挫折を経験し、タバコを覚えていっていつしかいなくなってしまった。

そうした後に筆者はボクシングをすることになる。そこにいたジムにTという軽量級のボクサーがいた。

こいつもとにかくセンスの塊。一緒にスパーをしたこともあるのだが、とにかく速い。軽量級だからパンチは大したことはないのだが、とにかくかまいたちが目に前にいたらこんな感じなのかな、と思うくらい全く対応できないくらいのスピードであった。

スパーが終わると息も切れている筆者に対して「もうちょっと攻撃してくれないと練習にならないですよ」涼しい顔。

実際Tのもとにはほかのジムから世界ランキングに入るくらいのボクサーがぜひスパーをしたいと出稽古するくらいの実力者で、Tはジムで初めてのチャンピオンになるかと将来を羨望されていた。

しかしTも結局女でダメになっていった。かねてから「スパーと女。どっちを優先するなら女でしょ」と公言していたT。実際にそうしたようでいくら先天的なセンスがあってもボクシングを最優先にできないボクサーにはタイトル挑戦のチャンスはない。結局Tも先天的なセンスを生かすことなく、ボクシングを引退していった。

結局のところ昔あるノンフィクションライターが言っていたが、格闘家の敵は女とタバコだと言っていたがいい得て妙な気がする。女の場合、敵という側面ではなく内助の功で成功するパターンもあるのであろうが、筆者の周囲では少なくともダメになったパターンのほうが多い。

筆者自身もっと格闘技のセンスがあれば成功したのに、と思った時期もあったが、今思ってみると、格闘技のセンスがあってもそれだけではだめでそれ以外の自制心やメンタルの強さがないと格闘技は成功できないし、それは格闘家のみならず広くアスリート全般に言えたことにあるように思える。

私的籠球論 23 厳然たる実力差……SR渋谷の現在地

筆者は実業団時代からSR渋谷の試合を見ているが、今回の2020‐21シーズンのSR渋谷が一番強かったように思える。しかしその一方で川崎や千葉といったBリーグのアイコンになっているような強豪チームに比べると厳然たる実力差があろうに思えてならない。

2021年4月に墨田区体育館でSR渋谷が千葉と対戦した。この時千葉はコロナの陽性反応が出たせいで4日前まで全体練習もできず、保健所の指導の下に外出制限まであった厳しい状態であった。

一方でSR渋谷は練習や試合をバンバンこなすことができてコンディションも試合勘も充実しきった状態で試合に臨めた。

こうしたある意味アンフェアな状況の中での試合。試合はSR渋谷の一方的な状況になるかと思っていた。

しかし試合はそうはならずに拮抗した展開に終始した。SR渋谷は得点源のライアン・ケリーがゴールの荒稼ぎをしたので試合は結局91‐85でSR渋谷が勝利したが、正直試合4日前まで練習ができなかったチームに僅差の勝利はというのも少し複雑な気持ちになった。

後この試合で気になったシーンというのは千葉の富樫勇樹がSR渋谷のベンドラメ礼生とのマッチアップであっさり剣道の抜き胴のような感じで抜いて言ったシーンがあった。

再三いうがこの日の千葉は練習ができず本調子ではなかった。それでもあっさり抜かれる。SR渋谷と千葉に実力差を感じる試合であった。

その後大型連休を使って、アウェーの川崎vsSR渋谷戦も見に行った。正直日本一になるチームの実力というのはこういうものかというのをまざまざと感じることとなる。

日本代表のホットラインとなるニック・ファジーカスと篠山竜青のピックアンドロールにSR渋谷は再三翻弄され続けた。またファジーカスが帰化選手ということもあってベンチ入りできる選手が増えたことにより、コート上に立つ川崎の外国出身選手が高く分厚い壁のようにそびえ立ち、SR渋谷が何度立ち向かっても跳ね返されるような分厚さというものを感じた。

客観的に見てSR渋谷にしても悪いチームではないのである。B1の中堅クラスのチームであったら余裕で20点差をつけられるような試合運びで快勝できるようなチームなのである。

しかしプレーオフで負けた宇都宮もそうなのだが、Bリーグのアイコンのようなチーム相手にリーグ戦の優勝争いをするには何か小さなピースが欠けているように感じる。ほんのごくわずかな小さなピース。しかしそのピースがなければ日本一にはなれない。リーグ優勝できない。その小さなピースが何なのかがわからない。

ただ個人的に思うのだがよく言う「傭兵頼み」ではなく日本出身選手の実力を向上させないと今のSR渋谷にBリーグ優勝は無理なような感じはする。

今シーズンはSR渋谷の試合を定期的に観戦するようになって最も充実していたチームだけあって日本一になれなかったのは悔しい。しかしこれが今の実力であるのも確かである。SR渋谷には捲土重来を期して来シーズンこそ笑顔になってもらいたいものである。

私的籠球論 22 日本への適応力

以前川崎ブレイブサンダースvsサンロッカーズ渋谷の試合を見ていた時のことであった。川崎には日本代表の選手が複数在籍しているが、その中でも御目当てはセンターのニック・ファジーカスであった。

股関節をこするような独特の走りのフォームとゴール下での絶対的な存在感。シュートセンスの高さ。近年の日本代表のセンターだと宇都宮ブレックスのライアン・ロシターもアピールをしているが、日本代表のセンターは俺だと言わんばかりの力強さ。このくらいの負けず嫌いでなおかつ芯の強さがないと日本代表というのは務まらないのだな、というのを、この日のファジーカスの動きを見ていて思った。

しかしファジーカスというのは実はNBAの経験はない。U-19の世界選手権でアメリカ代表に選出されたことはあるもののNBAでのプレーはなかった選手である。

筆者が見た試合でSR渋谷にいるジェームス・マカドゥはNBAでゴールデンステイト・ウォーリアーズでのNBAチャンピオンの経験もあるし、ライアン・ケリーはロサンゼルス・レイカーズの在籍経験もある。本来バスケット選手の格で言えばこの二人のほうが上である。

しかし野球でもサッカーでもそうなのであるが大事なのは本場でどれだけ活躍したかということでなく、日本という土地にどれだけ適応できるのかということである。

この日のファジーカスののプレーを見ていて思ったのが、かつての日本のプロ野球がバリバリのメジャーリーガーを呼んできて失敗した一方で、阪神にいたバースやヤクルトのラミレスはアメリカでは結果を残せず、日本に来たのが背水の陣でプレーしていたということである。

前述のマカドゥやケリーはBリーグでは成功している部類に入るが、日本に来ているアメリカ人バスケットプレーヤーの中には日本という異質の環境に適応できずに、有り余る能力を発揮できずに帰国していった選手も数多い。

その一方でファジーカスも田舎か都会かの好みで言えば都会のほうが好きで、以前在籍していたベルギーの小都市のクラブでは町になじめずすぐに退団したという経緯がある。

そう思うと来日する外国人プレーヤーというのはアスリートの宿命とはいえ、まったく異質の環境にも適応しなければならないという意味では本当にタフな仕事のように感じる。

車にしてもハンドルの右と左の違いもあるし、休日に気晴らしに服を買いにいこうにしても、服のサイズが合わなくて買い物の気晴らしもできない。何より大柄だから何をしても目立つので周囲の視線も感じる。選手によっては神経質になる人間もいるであろう。

しかしそうした中でもアスリートというのは何の競技でもその国に適応できれば、自国の結果にかかわらず、自分の居場所ができるのかもしれない。適応力のというのはアスリートにとって必須の能力だ。

私的スポーツビジネス論 50 シャトルバスは重要

先日千葉県某所で女子サッカーの試合を見に行く機会があった。その試合の試合会場は駅からかなり離れた僻地で今までは駅からレンタルサイクルを借りて試合会場に行かなければならないという不便な環境であった。

しかし今回の女子サッカーの試合では地元のバス会社と連携して、駅から有料のシャトルバスが運行されていた。正直これはかなり助かった。

筆者自身サッカーとバスケットを観戦する生活を今しているわけであるが、バスケットで1部リーグの強豪でもシャトルバスを運行せず帰りは遠い駅まで徒歩で帰らないといけない、もしくは試合観戦を途中で切り上げて路線バスで帰らないといけないチームもある。

サッカーでもプロのチームはシャトルバスを運行しているクラブはあるものの、4部以下のアマチュアのチームになると上記の女子サッカーチームみたくシャトルバスを運行しないチームもある。

チームによってはアマチュアでも1000人集められるチームもあるが路線バスに乗れる人数なんてせいぜい20人が限度。あとはひたすら次のバスが来るまで待っていないといけないという苦行をしないといけない。サッカーでもバスケでもこれで興行と言えるのかと思ってしまうことも数多くある。

正直サッカーだろうがバスケットであろうが、駅から遠い試合会場を本拠地にするチームはお金がかかってもシャトルバスを準備するべきである。

よくプロスポーツチームのフロントはいい選手を集めて強いチームを作って敵を倒せば右肩上がりに業績が上がると勘違いしているが、実際のところスポーツビジネスというのは来場していただいたお客様にどうやって安全に最寄り駅まで送り届けるかということを考えるのも重要なのだ。

少し本筋と違う話になるが、プロ野球で巨人の試合を見てみると東京のど真ん中でJRと数多くの地下鉄が東京ドーム近くに隣接し、特に目立った混雑もなく首都圏近郊のファンの家まで送り届けることができている人的流通システムというのは、スポーツビジネスを考えるうえで実はすごいことのように思える。野球ファンはそれができて当たり前だと考えているが、この東京ドーム近辺の交通網の利便性の高さというのは実際にものすごくレベルの高い構造にあると筆者は考えている。

話をシャトルバスに戻す。近年様々なプロスポーツが生まれ胎動している。こうした競技団体のトップというのは強いチームを作って勝ちまくれば勝手に客はついてくると勘違いしている人間も多い。

しかしどれだけ感動的な試合をしていても帰りに車で来て渋滞に巻き込まれたり、路線バスで待たされていたら、競技に対する興味も熱も下がって、人気が停滞するのは目に見えている。

スポーツチームのフロントにとってチームの戦力強化というのも大事なのであるが、ちゃんとシャトルバスを準備して最低限お客様を最寄り駅までは安全に送り迎えするという責任も同時に必要なことのように見える。

今回はシャトルバスは重要という当たり前なことを書いたのであるが、そうした当たり前なことができていないチームというのはじてゃ日本中にたくさんあるので、あえてその重要性について書いた次第である。

 

私的スポーツビジネス論 49 28年と5年の差

私事で恐縮であるが、先日Bリーグを観戦しに行った。その時そのクラブのあるサービスを受けられると言っていたのでその準備をしていった。

しかしそこの総合受付で結局そのサービスは適用外と言われてひどく落ちんだ状態で試合観戦に臨んだのを覚えている。

直接クラブ名を書くとそのクラブに迷惑をこうむることになるので敢えて名前は書かないが、そのクラブはBリーグ屈指の強豪クラブで人気や注目度が高いチームであった。

それだけに今回の件はがっかりした。それ以外でも会場が最寄駅から遠いのに、帰りにシャトルバスもなく結果的に筆者は試合途中で路線バスで帰らざるを得なかった。

今回のバスケ観戦は楽しみにしていただけに正直がっかりした部分があるのも否めない。

その後もこの件に関してしばらく悶々とした感情に支配されていたが、ある時気が付いた。

Bリーグもまだ出来上がってたった5年しかたっていない未成熟なプロスポーツビジネスである。至らないところがあって当たり前である」

筆者自体若いころからJリーグのサッカーを観戦していて、色々なサービスの恩恵にあずかっていたが、正直そうした至れり尽くせりのサービスに胡坐をかいていたのかもしれないと思った。

1993年に開幕したJリーグ。今年で誕生から28年という歳月が流れている。28年という時間は悠久の時というには短いが、さりとて新参者とは言えない長さも感じる。この中で日本のサッカー界は濃密な時間を過ごしてきて、その間に来場したお客様に痒い所に手が届くようなおもてなしするように文字通り血のにじむような努力をしてきた。この28年間という時間はサッカー界が身を粉にして働いてきた絶対的なアドバンテージである。

今この記事を書いて思い出したのが2015年のラグビーW杯直後のトップリーグである。この大会で好成績を収めた日本代表が出場する国内リーグの試合を一目見ようと多くのラグビー初心者がラグビー場に詰めかけた。

しかし多くのチケット発券システムを持たないラグビー界はこの好機に対応できずに結果人気があるのに空席が目立つスタジアムが数多く出現し、結果ファン獲得に失敗したということがニュースにもなった。

翻ってバスケットである。プロバスケBリーグは発足してまだ立ったの5年である。人間で言えばまだ幼稚園児レベルの成長しかしていないのである。

昔読んだサッカーノンフィクションでブラジル人の名監督が日本が実業団リーグからプロサッカーに移行しようとするときに「プロというのは制度だけの問題ではない。表も裏も(選手もフロントも)プロになるには途方もない時間が必要なのだ」とあったが、サッカーがそうであったようにバスケットもまたこれから真のプロスポーツになるために途方もない時間と手間暇が必要になるのであろう。

今回のブログはプロになるためには何が必要なのかといういわば精神論に近い記事になったが、プロバスケという有力なコンテンツを生かすも殺すも結局はフロント次第なのである。

 

 

私的スポーツビジネス論 48 節制とアンチエイジング

筆者の場合、若いころボクシングをやっていたから特に思ってしまうのであるが、アスリートを見るときにどうしても節制について考える節はある。

このブログを書いた翌日からまた会社に行くわけであるが、会社に通っていると最近の20代の健康志向というのはある意味すごいと思ってしまう時もある。

まだ20代何をやっても身体は自由に動くと思っていても、死と老化に対する恐怖というのが彼らの中にもあるらしく、とにかく身体を鍛えないと恐怖になってしまうらしい。

だからかどうかわからないが彼らはとにかく酒やたばこといった不健康なものを口にしないのはもちろんのこと、暇さえあれば週末の10キロ走や皇居ランに汗を流している。

しかしそうした20代の姿を見てもうじき43歳になるおっさんの自分が見ると「結局のところ、人間老化に抗えないんだよな」と考えてしまう。

人間30代になると30代の身体になるというし、40代になると40代の身体になるといわれている。

自分で言うと30代になってもジョギングは続けていたけれども結局激太りはした。どれだけ運動をしても、人間筋肉の量というのは衰えていくのであって筋肉の量が衰えれば基礎代謝量も当然減る。そうすると身体に脂肪が蓄積する。そうすると太る。この流れというのは抗えないものなのである。

ボクシングで言えば昔練習でフィリピンに行ったとき、現地の元世界ランカーのトレーナーが体重計に乗り「シックスティーファーイブ(65キロ)」とおどけていた。そのトレーナーの現役時代の体重は47キロであった。

筆者自身もそうなのであるが、結局のところ現役時代の体重を維持できるような元アスリートというのはいないわけではないがごく少数派である。大半の元ボクサーは現役を退くと太るものだ。

節制という少し違うかもしれないが、筋肉をつけて走っていれば健康が維持できるのかというのも違う気がする。

筆者も今でもジョギングは好きであるが、身体を鍛えまくったフィジカルエリートでもがんになったら進行が早くあっけなく亡くなることもある。そうした意味で先日の柔道の古賀稔彦さんの53歳での逝去は本当に驚いたし、身体を鍛える=長寿ではないということを感じた。

ラソンランナーという人種も基本短命な人が多いし、ジョギングというのは結局のところ生活習慣病になりずらくなるので、慢性疾患にも相対的になりずらいというだけであって絶対に長寿になる保証もないのである。

じぶんの身内で言えば、自分の叔母は酒・たばこが大好きな人であるが年じゅう調子悪いと言いつつ84歳まで元気に生き続けている。節制とアンチエイジングというのは本質的なところ解明できていないことが多きがする。

今回は少し趣向を変えて節制とアンチエイジングについて考えてみたわけであるが、グダグダの生活が悪いのが当然であるが、さりとてやみくもにストイックな健康生活というのも長寿を保証しない。何が長寿を保証するのか生きてみないとわからないものなのである。